初代会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)と土津神社(はにつじんじゃ)

保科正之は、徳川2代将軍秀忠の子として生まれ、信州高遠、出羽最上を経て会津藩主となり、名君ぶりを発揮した。また、4代将軍家綱の後見役として幕政に携わり、明暦の大火後の江戸の復興、玉川上水の建設、殉死の禁止など数々の功績をあげた。学問に秀でて、特に神道(しんとう)の師・吉川惟足(よしかわこれたり)より「土津霊神」の霊号を授かった。正之は自ら猪苗代の地を訪れ、古社・磐椅神社の末社として祀るよう遺言し、没後1675(延宝3)年に「土津神社」が、会津の城を守る鬼門の位置に創建された。以後、土津神社には9代までの歴代の藩主が祀られている。

保科正之保科正之(土津神社蔵)

創建当初は東北の日光と言われる程の豪華絢爛であったが、戊辰戦争で焼失、ご神体は一時、斗南(となみ)藩(青森県)に遷(うつ)され、社地は没収された。1874(明治7)年にご神体は、猪苗代に戻り、磐椅神社に仮遷宮された。その後、社地は有志により買い戻され、社殿も1880(明治13)年再建され現在に至る。神社、奥の院ともに会津藩主松平家墓所として国指定史跡となっている。

土津神社社殿土津神社社殿
土田堰(はにたせき)

土津神社の祭田料(さいでんりょう)とするため1674(延宝2)年に土田新村を開き、その用水とするため開削された堰で、今でも多くの田んぼを潤している。近世期には、この堰を利用して、流し木をして、若松城下に薪を供給していた。土津神社や磐椅神社の御手洗川ともなっている。

土津堰

奥津城(おくつき)[奥の院]

神社の東にある参道を登っていくと、奥の院と呼ばれている保科正之の墓所がある。正之は1672(寛文12)年12月18日、江戸・箕田(三田)の会津藩下屋敷で亡くなると、翌年の3月に遺言どおり遺体は猪苗代に安置された。正之は亡くなる前年に猪苗代を訪れた時に「万代と いはひ来にけり会津山 たかまの原のすみかもとめて」と詠じると同行した吉川惟足は「君ここに 千とせの後のすみどころ 二葉の松は雲を凌がん」とかえした。

保科正之の墓

土津霊神の碑

儒学者・山崎闇斎(やまさきあんさい)が撰文(せんぶん)し、能書家・土佐左兵衛(とささへい)の筆による正之の事績(※1)が、1943文字に刻まれている。亀趺(きふ)(台座・亀石)と竿石を合わせると高さ7m余に及ぶもので、日本では最大の碑と言われている。亀趺は近くの土町から、竿石は16キロほど離れた八田野から、3千人を要して運んだもの。亀石は鬼門の北を向いて据えられている。

※1 事績・・・ある人の成しとげたことがら。業績

土津霊神の碑